映画『スポットライト 世紀のスクープ』ネタバレ感想と評価・実話事件のその後
必見。実話だけに大変、力のある作品でした。「スポットライト」チームが、事件と教会を追いつめる迫力あるドキュメンタリーとしての側面、法廷の駆け引き、いまだに虐待が続いていることを示す、子供たちの姿。ちょうど9/11が起きて、人のよりどころとなった教会と、そこへ集う良心的な人々。この事件の全容の複雑さと大きさ、そして闇の深さに、呆然としてしまう面もあります。いろいろな人が観るべき一本だなと思いました。
あらすじ
2001年の夏、ボストン・グローブ紙に新しい編集局長のマーティ・バロンが着任する。マイアミからやってきたアウトサイダーのバロンは、地元出身の誰もがタブー視するカトリック教会の権威にひるまず、ある神父による性的虐待事件を詳しく掘り下げる方針を打ち出す。その担当を命じられたのは、独自の極秘調査に基づく特集記事欄《スポットライト》を手がける4人の記者たち。大勢の神父が同様の罪を犯しているおぞましい実態と、その背後に教会の隠蔽システムが存在する疑惑を探り当てる。
監督:トーマス・マッカーシー
音楽 ハワード・ショア
受賞:アカデミー賞 作品賞、脚本賞
出演者:マーク・ラファロ、マイケル・キートン、レイチェル・マクアダムス、リーヴ・シュレイバー、ジョン・スラッテリー、スタンリー・トゥッチ
予告編
カトリック教会を追いつめる取材の積み重ねはサスペンスフル
一見すると地味な映画ですが、ボストン・グローブ紙の「スポットライト」チームが、徐々に虐待事件の全貌を明らかにしていく過程は、語弊を恐れずに言えば、サスペンス映画のようなおもしろさがあります。
最初は、ひとりの神父が性的虐待の罪を逃れたのではないかという疑惑からはじまり、ひとり、またひとりと容疑者がふえていく。やがて10人を越え、もはや個々の神父の犯罪とは言えないほどに、数は膨れ上がるーー途方もない数に。
積み上がっていく疑問
これだけの容疑者がいるのに、なぜ事件は表に出てこないのか? 警察は動いたのか? 司法は何をしていた? そしてなにより、カトリック教会は知っていたのか? 知っていたのなら、なぜ手を打たなかったのかーーあるいは、手を打ったのか?
カトリック社会の反応と圧力
ぼくはイギリスに数年住んでいたことがあるのですが、西・北ヨーロッパと比較すると、アメリカの方がいまだにキリスト教のステータスと影響力は強いと思います。ボストンという街の基盤にも、キリスト教は深く根付いています。
「ボストン・グローブ」の購読者も53%がカソリック。枢機卿ローは街の名士であるだけではなく、新聞の支援者であり、新任の新聞局長は彼のもとに挨拶へいくことが慣例にさえなっています。映画が進むと、司法をふくめた広範な層からの反発と圧力が「スポットライト」チームにのしかかってきます。
なぜプロテスタントではなく、カトリックなのか?
被害がプロテスタントではなく、カトリックに集中していた理由について、映画のなかで示された理論が興味深かったです。「カソリックの司祭は妻帯できず、性的交渉をしてはならない」こと。これが事件の背景にあり、しかも、研究の結果、この結論を出したのは、心理学を研究していたカトリック教会内部の司祭でした。つまり教会、ひいてはヴァチカンもそれを承知していた、そして今でも承知している、ということになります。
同じように妻帯や女犯を課している他の宗教はどうなんだろう?
実話という重さーー被害者の悲しみ、そして各自の責任
加害者がそれだけいるということは、当然、被害者も大変な数にのぼるということです。彼らの葛藤や、怒りと涙をこらえて証言する姿がとても見ていてつらい。「しかし生きているだけまだいい方だ」という台詞が劇中でありました。
では、それだけの被害者はそれまで口を閉ざしていたのでしょうか? 誰にも訴えなかった? そんなわけはありません。この映画に出てくる事件だけでも、数十年前から起きていました。それがなぜ2001年まで表に出てくることがなかったのか。カトリック教会はなにをしていたのか? 警察は? 司法は? 新聞記者は? いや、自分は? ある意味では、それがこの映画のテーマであるとも言えるでしょう。
映画を見て考えたこと
もともとぼくはけっこう強固な無神論者で、宗教的組織に関しては非常に不信感を持っていたので、教会が臭い者に蓋をし、目をそらし続け、事件を隠蔽していたことには大して驚きもしませんでした。信仰が尊いものだとは思わないけど、個々の信者にとって心のよりどころになっていることは否定しません。救われる人もたくさんいるでしょう。いつか死に直面したら、自分だってすがることがないとは言い切れません。
でも、巨大化・組織化した時点で、もはや利権団体に堕することは避けられないと思うんですよね。組織のための組織。宗教とその関係者は、決して誤りを犯さない絶対者として、何も判断できない子供の脳に刷り込まれていきます。親から。社会から。疑うこと、質問することすら許されない絶対的な権威と、莫大な富を持っています。これは果たして許されるべき存在なんだろうか。
かつて建てられた豪奢な大聖堂や遺跡など、世界遺産を観るのは大好きだけど、どの伝統宗教でもーーカソリックに限らずプロテスタント、仏教、イスラム、神道、ユダヤなどなどーー数百~数千年前に書かれた紙片を根拠に、巨大な権力と金を保持して個人を押しつぶす宗教組織をいつまで人は必要とするんだろう? そんなことを考えました。
ただ、カトリック教会の聖職者による児童虐待という非常に重たいテーマを扱い、新聞記者による地道な取材活動を追ったこの作品がアカデミー賞をとったことには、アメリカ映画界の度量を感じますね。
教会の罪は終わった訳ではない
その後の調査報道を読むと、いかに現カトリック体制が執拗にこの問題を矮小化し、教会の権威を保とうとしているかが分かり、頭にきます。この事件は全然終わった訳ではないんですよね。
下の記事では、アメリカで罪を犯した司祭たちが南米の教区に転属し、そこでさらに犯行を重ねていること、そしてそれに対してバチカンが何も手を打っていないことがわかります。これは英語なのですが、南米まで行って彼らに対面した、非常に力の入った取材で関心のある方はぜひ読んでいただきたいです。
神父たちがアメリカやヨーロッパからペルーやチリ、ブラジル等の小村に移り、「子供たちを集めて」慈善活動をしたり、孤児院を設立している話など、読んでいて吐き気がします。現ローマ教皇のフランシスコは、とくに前法王と比較すると比較的リベラルで信望も集めていますが、こうした状態を放置している以上は所詮、大カトリック組織の長にすぎないな、とぼくは思うのです。本当に宗教者なら、なにを置いても救うべきはまず子供たちではないでしょうか。たとえそれでバチカンが滅ぶとしても。
オリジナル・ポスター(どれも超かっこいい!)